2020年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

2020年10月23日 御本宮大祭 宮司講話

超作における空と実現
― 東西宗教の統合 ―

 私は宗教間対話をするなかで気がついたことがひとつあります。それは、キリスト教と仏教の人が宗教的な内容対話しているなかには、神道の人は入っていきにくいということです。しばらくして、その理由に気がつきました。それは、キリスト教には創造主という唯一のものがあり、仏教にも法という唯一のものがある。つまり、根本的な第一原理があるような宗教同士が話し合っているときに、そのような原理を持たない、神道のような多神教は同じ地平に立って話すことは難しいようなのです。
 さて、イギリスの聖職者でジョン・ヒックという先生がいます。その先生は宗教多元主義という考え方を提唱されました。湯浅泰雄先生のご推薦でIARPの年次大会にお呼びしたこともあります。宗教多元主義というのは、太陽を違うレンズで通して見ると違う色で見えるように、神はそのとらえ方によってたくさんの名前を持つのであり、天にいます父とかアッラーとか法とかブラフマンといった違う名前で呼ばれていても、それは同じ唯一の実在なのであるというものです。
 彼は、その考え方に基づいて、自身のキリスト信仰を相対化し、他宗教とキリスト教とを同じ価値のものと見なしました。そして、これはキリスト教の歴史のなかでは、驚くべきことなのです。この考え方は宗教間対話の世界に大きな影響を与えました。
 しかし、この考え方では、やはり第一原理を欠く多神教は除外されてしまいます。このヒック先生の思想を日本に紹介した間瀬先生という方がいます。私はその間瀬先生に宗教多元主義では多神教は対話に参加できないのではないかと質問したことがあります。間瀬先生は、確かにヒック先生は神道のような宗教は念頭にあまり置いていなかったと答えられました。
 初代宮司様は神道教団であるここで創造主信仰を唱えられたのですから、一神教と多神教の統合というテーマを持たれていたはずです。そのテーマを私も引き継ぎ、今年の春の大祭の講話で私なりの結論をお話ししました。私はそこで、創造主信仰は生き方で示すしかない、超作はそのような生き方であるという話をしました。この考え方に一神教の方が合意するかどうかは分かりません。しかし、創造主は宗教行為の直接の対象になり得ない何かだと私は思っています。

 この問題と比べると、第一原理を持つもの同士である一神教と仏教の統合はやさしいと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。初代宮司様の生涯にわたるテーマは、まさにこの東西の宗教の統合だったのです。これには根元的な困難があります。それに比べれば、一神教と多神教の統合は実はそんなに難しいものでありません。創造主と神々の違いを明確にすればいいだけなのです。
 しかし、一神教と仏教の間には越えがたい深い溝があります。今日はそのことをお話しし、初代宮司様が挑まれた困難がどういうものであったのかを示し、その上で超作が東西宗教の統合のための実践になる可能性を持っていることをごく簡単に述べたいと思います。

 初代宮司様は東西宗教の統合のための原理を追い求めていらっしゃいましたが、実際にはそれはキリスト教と仏教との、もっと言えば大乗仏教との統合のための原理でした。初代宮司様が西洋の宗教としてまず念頭に置かれたのはキリスト教であり、東洋の宗教としては大乗仏教でありました。ちなみに、密教も大乗仏教の一部です。
 この二つの宗教が根本的に違うことを二つの点でお話しします。ひとつ目はこの世をどのようにとらえるのかということです。大乗仏教に限らず、仏教はお釈迦様が生存、つまり輪廻は苦であるととらえたところが出発点ですから、この世を祝福する宗教ではありません。生存が苦であることは、仏教の根本的な教義のひとつである四聖諦つまり苦集滅道の始めにはっきりと述べられています。それに対して、キリスト教ではこの世はそれを創られた創造主の御意思が実現される場であり、祝福されるべきところです。この時点で立場の違いが鮮明になっていると言えるでしょう。
 特に大乗仏教は顕教であっても密教であっても空の思想が根底にありますので、目に見える世界のものはすべて幻であり、その幻に執着することを強く諌めます。もちろん、大乗仏教は多様な宗派を包含するものでありますし、日本の仏教教団のほとんどは大乗仏教のものであり、その多くがよりよい社会を作るための活動をされていて、多くの成果をあげられています。私もそのことは十分に承知していますが、それでもやはり仏教はこの世を祝福するタイプの宗教ではなく、この世という苦からいかに逃れるかを主眼に置いた宗教であることは否定できないのです。
 過去のキリスト教の宣教が、西洋列強の植民地支配の道具となっていた面は否めませんが、やはりこの世を祝福して神の意思を実現させるためのものであったのも事実で、二つの宗教の立場の違いは明白であると言えます。

 次にこの二つの宗教の重要な教理の違いについて簡単にお話ししましょう。先程言いましたように、大乗仏教の根底にあるのは空の思想です。一切が空であるということは、すべてのものはそれ自体で自立的に存在することができないものであり、「何々そのもの」というような、つまり何々という本質を恒常的に維持するようなものはひとつとしてないということです。これでは抽象的で分かりにくいですね。例えば、人間そのものという人はどこにもいません。実際にいるのは一人ひとりの具体的で個性ある人たちです。 母親そのものという人もいません。いるのは一人ひとりのそれぞれに違った人間であるお母さんたちです。このレベルでは何々そのものなどというものは存在しません。つまり、頭の中にある人間の本質そのものを体現しているような人間はどこにもいないのです。母親そのものという本質を体現しているお母さんもどこにもいません。要するに、そのような無個性で、のっぺらぼうな人間も、母親もいないのです。幼い頃の初代宮司様は、清光先生のあとに来た継母も女であるからには母性という本質を宿しているのだから、お母さんと呼ぶことができるんだ、と自分を納得させたそうです。しかし、空の思想によれば、そのような本質というものはないのです。
 しかし、多くの人が共有するような一般的な本質ではなく、個人のレベルでそれを考えたらどうでしょうか。本山一博そのものはいるのでしょうか。幼少のときの私と青年の頃の私、そして今の私を通しての一貫した本質はあるでしょうか。つまり、僕が僕であるところの本山一博の本質というものはあるのでしょうか。空の思想に基づけば、やはりそのような本質はありません。年齢とともに容姿も考え方も変わっていきます。ですから、そのような外から観察できるようなものが本質でないことは明らかです。そこで、多くの人は自分自身の本質を霊魂に求めます。しかし、そのような本質としての霊魂はないというのが空の思想です。人間や母親という一般的な概念に対応する本質もなければ、個々の人間の本質もないのです。それが空の思想です。ちなみに、これは霊魂が存在しないという話ではありません。霊魂も空なるもので、そのような本質を持つものではないという話です。
 そして、何々そのものがあるかのように思う執着から離れるのが大切なのですから、そのような本質を実現させようという考えは、当然出てきません。空の思想に基づけば、真実そのもの、善そのもの、美そのものというイデアのようなものもあり得ません。そう言えば、初代宮司様は母性を説明なさるときに、母親のイデアという言葉を使っていらっしゃいました。初代宮司様のそのような考え方は、実は空の思想によっては否定されるのです。

 しかし、一神教における創造主はそのような真実そのものであり、善そのものであり、美そのものなのです。そして、この世はその創造主の本質である、真実、善、美を実現させる場所です。創造主の御意思は実在する本質であり、その実現のために努めるのは人間の当然の義務になります。キリスト教にしろイスラムにしろ、広く宣教するのは創造主の御意思の実現のためなのです。聖書の冒頭は天地創造の物語ですが、そこで創造主たる神は、言葉を発することによって創造をされます。神の言葉は実在する本質であり、万物はそれに従うのです。
 空の思想はそのようなものは認めません。ですから、大乗仏教との違いは乗り越えようのないほどに大きいのです。

 この宗教としての基本的な立場の違い、教義構造の決定的な違いを、本山博神学がどのように乗り越えようとしたかをお話しするのには今日は時間が足りません。そこで、批判は覚悟で大雑把なざっくりしたお話をして、超作が両宗教の統合のための実践である可能性についてお話しします。
 初代宮司様は超作について様々な説明をなさいました。その中でも、『愛と超作』というご著書の中にある説明が今回の話では特に重要です。その本では、私が「上がって下がる」と呼んでいる超作の説明があるのです。その内容を簡単に述べれば、超作をするためには一度神様のところまで上っていって、それから人間のところにまで下がって来なければならない、ということです。これは簡単に言えば神様の御許まで行って御神意をつかみ、それを人間の世界に持ち帰って実現させるということです。
 神様の御許まで行く、つまり上がるために必要なのが自己否定と神様の御力すなわち他力である、と初代宮司様は繰り返し説かれます。では、自己否定とはなんでしょうか。それは仏教的に言えば、我と我がものという観念から離れることです。このことについてはあまり詳細にお話しする時間はありませんが、まずは通常の心の働きがまったく止まってしまうことだと思ってください。
 一切が空であり、幻のようなものだということは、次のようなことだと言えます。私が泊まっている宿の二階の食堂広間には弘法大師様の像があります。神社の人は皆信心深いので食事の前に手を合わせます。私も合わせます。その像は等身大よりやや小さめでなかなかリアルにできています。木でできた像であっても、弘法大師様のお姿を見ると、弘法大師様そのものがそこにいらっしゃるように思われてきます。
 それと同じように、私たちは心の中に映じるものが、そのまま外の世界に実在するように思ってしまっています。私たちが見ているのは世界そのものではありません。 私たちが見ているのは、私たちの心の中に映じられている映像にすぎません。その映像は幻であり、その幻がそのまま実際の世界だと思うことが無明なのです。そして、 私たちはその無明ゆえに苦しむのです。
 そして、最も根元的な無明、つまり根元的な幻が我と我がものであるのです。自分の中にある自分という観念、つまり自分の中にある自分自身について映像が、そのままこの世界に存在している自分であると思うのが無明です。自分のものという観念についてもそうです。その幻をなくすことが心の働きを止めるということです。

 初代宮司様はそのような仏教の考えを肯定し、かつ否定していらっしゃいました。初代宮司様にとっては、心の中に映じられるものはただの幻である、という捉え方だけでは足りなかったのです。
 京セラ創業者の稲盛先生は新規事業を立ち上げるときには、細かなところまで頭のなかで綿密に詰めて考えられるそうです。稲盛先生はこれをシミュレーションと呼ばれます。潜在意識に浸透するまでシミュレーションを繰り返すと、あるときその事業の姿がカラーの映像として細部にわたり見えるようになるそうです。そうなると、その事業は必ずその通りに成就するとおっしゃるのです。このように心の中に映じたカラー映像はただの幻でしょうか。

 御神意は物質の世界に実現される前に、まず心の世界で実現されます。心の世界で実現された御神意が物質の世界に実現されると、他の人もその実現を見て御神意を理解します。平等という御神意を偉大な政治指導者が心の中に思い描くとき、それは彼の心のなかで実現しています。それが彼の政治的行為によって目に見える世界で実現されると、多くの人は、人間が生まれながらに平等であるという御神意を理解できるのです。
 このような「実現」という視点が仏教には希薄です。それは、心の中に映じるものを幻としてしかみないからでしょう。
 上がって下がる、の下がるがこの「実現」に当たります。実現とは精神の内容がモノの上に現れることです。ですから、心の中に現れるとは心の材料となるモノの上に現れることです。ですから、初代宮司様は霊界もモノの世界とし、その霊界にも想念の世界と英知の世界などの階層があり、それぞれの階層でのモノがあると言われたのです。

 私が思いますに、苦しみの原因は二通りあり、ひとつはそれぞれの階層での実現に齟齬があることです。『十五条の御神訓』の第十二条はそれを示していると思います。心に映じたものがそのまま物質の世界にあると思うことはその齟齬の最たるものだと思います。それが執着というものに当たるのでしょう。それは第十一条に関連するでしょう。もうひとつの原因は、その実現が神様、もっと言えば創造主の御意思に沿っていないことです。それは、第六条と第十五条に関わるでしょう。

 初代宮司様によれば、上がるためには自己否定と他力が必要です。自己否定についてはどの宗教よりも仏教が突き詰めてきたと思います。他力と実現に関しては一神教が突き詰めてきたと言えるでしょう。もっとも、他力については仏教の一部も強調しています。

 この二つの宗教の違いはどうして生じるのか。それについては初代宮司様は気候や風土に結びつけて説明なさいました。私は私なりに別の説明を試みますと、一神教では創造主が創られた物理的な世界が先にあり、その後に人間が創造されます。ですから、人間の主観と関わりなく、外界は客観的に、そして普遍的に存在するのです。聖書によれば、創造主は言葉を発して天地を創造されたあと、それをご覧になって良しとされました。御神意の実現は創造主によって望まれていることなのです。初代宮司様にとっても御神意の実現はもっとも優先されるべきものでした。

 一方、インドの宗教、特に仏教で際立っているのは、世界をあくまで主観によって認識されたものとしてとらえることです。ですから、仏教では主観を離れた客観的な世界はあまり興味を持たれません。ナーガールジュナを始祖とし、空の思想を創始した中観派とともに、大乗仏教の二大潮流をなす唯識派は外界の存在を認めず、心の中に世界のすべてを納めようとします。そのような唯心論的な傾向の強い仏教にとっては、モノの世界における実現というものにはあまり価値が置かれないのでしょう。
 しかし、大乗仏教の空の思想を生むことになった仏教の根本思想である縁起の思想は、一神教的な世界観を根底から覆す可能性を秘めながらも、世界のあり方について否定しがたい説得力を持っています。縁起とは、批判覚悟で簡単に言えば、一切のものが単独では存在できず、他のものに依存して存在しているということです。

 空の思想が正しいのであれば、実現とはどういうことであるのか、それこそ今後の課題です。実現は御神意の実現だけではありません。芸術家により偉大な作品が創作された場合、人はその作品に触れて心を打たれます。芸術作品とは、絵画であれば、それはキャンバスと絵の具にすぎません。音楽であれば、それは空気の振動にすぎません。では、感動はどこから来るのでしょう。何がどこに実現しているのでしょうか。実現とはなんなのか、それを解明することは私にとっては大きな課題です。空の思想によれば、そのような実現そのものが幻なのかもしれません。しかし、それでは御神意の実現ということそのものが無意味なものになります。

 初代宮司様はこのまったく異なる二つの宗教の統合のために論理の面では場所論、創造論、独自の空観を駆使して、絶対と創造主の関係の論理を提示し、実践の面では超作を提示なさいました。論理的な面はおいおいお話しするとして、実践の面では、一神教と多神教の統合、東西の宗教の統合の両方に関わる超作にはそれだけの含蓄があるということだけは覚えておいてください。

 私は、自分が見ている世界は自分の認識にすぎないこと、自分の認識は幻であり、実際にあるものは空であることを体得できるように精進し、幻の中の幻である我と我がものという観念から離れられるように、自己否定に努めたいと思っています。また、そのような自己否定を通して、社会的な場面において神様ならどうなさるのかという視点に立つ場所的自己否定に努め、御神意をつかめるようになりたい、そしてそれを心のなかで十分に実現し、それからそれを目に見える世界に実現して、御神意を他者に悟らせることができる神の道具になりたいと切に願っています。神社の信徒の皆様にもそのようになっていただきたいと思っています。

 最後に一言申せば、自己否定と他力により上がることは神秘です。下がることによって御神意を実現することは倫理です。今日の話は神倫の話でもあるのです。

(了)