2013年9月8日 感謝祭 宮司講話
2013年9月8日 感謝祭 宮司講話
二願一致
―「願いをかなえる道」から「超作への道」―
自分の今までを振り返って、信仰者として自分が求めている姿と言いますか、自分の信仰理念というものを一言で言い表せないだろうかと、先月あたりずっと考えていました。しかし、すでにある言葉の中にはあまりいい言葉がなかったので、自分で言葉を作ってみました。
それは、「二願一致」です。二つの願いが一致するということです。
これはどういうことかと言いますと、一つは私自身の願いですね。もう一つは、神様の願いです。
最初は、僕も含めて誰でもそうですが、願い事があって、神様にそれを訴えたくてお祈りをするのですね。困ったことがある、あるいはやり遂げたいことがある、そういう願い事があって、それをなんとか叶えてください、と神様に訴えるわけですね。それが祈りであるわけです。
お祈りをするのは、やはり願いがあるからです。一生懸命お祈りして、自分ができることも一生懸命しておりますと、神様は何かしらの形でそれに応えてくださる、叶えてくださいます。ただし、自分が思っていたような形ではなくて、思いもかけない形で叶えて戴くことも多いのです。いずれにせよ、そのときには、神様も私の願いを願ってくださった、ということもできるわけですね。私の願いを神様も願ってくださって、私の願いと神様の願いが一致した、ということになります。ただし、それは方便としての「二願一致」、二つの願いの一致なのです。それは神様による憐れみであり、神様が私達を信仰に導くためにそうされるのです。そうやって私達は神様に心を開いて、神様と結びつけられていく。
神様は超越者として天高くにいらっしゃるだけではなくて、私の中にも生きていらっしゃる。だから、神様との結びつきが深くなると、神様の願いがだんだんと私の願いになっていく。神様がこの一博にさせたいことが私自身の願いとなっていく、そのようにだんだんと私が変わっていく。
もしも本当に神様が私にさせたいと思っていらっしゃること、そういう意味で神様が願っていらっしゃること、それを私が自分の願いとしてそれが実現したときには、神様の御意志を私の身体を通してこの世に実現させる、ということになる。それが、方便ではない真実の二願一致だと思うのです。
もちろん、私はまだそこまで到達しているとは思いませんけれども、私が目指してきた信仰の姿というのはそういうものではないかなと思うのですね。
私の何かと神様の何かが一致するのであれば、昔からある言葉に、「神人合一」という言葉がありますね。神と人との合一、神様と私が一つになる。今お話しした内容を表す言葉としては、「神人合一」で十分ではないかと思いもしたのですが、やはりこの「二願一致」という言葉を、私の信仰の姿勢として使いたかった。それには訳があるわけです。
この二つの言葉では何が一番違うかというと、「願い」という言葉があるかどうかです。願いというのは非常に大事です。そして、願いは欲求ではないのです。動物でも欲求はありますが、願いというのはないでしょう。あるべき姿とか、こうありたい姿とかということを動物は考えない。しかし、人間は将来こうありたい、こうしたいと思うから、願いが生じるのです。そして、願いは私達を行動に駆り立てます。願いがあるから、私達は行動するわけです。パンダを見たいなと思うから、電車に乗って上野動物園へ行くわけですね。願いがあるから、行動するわけです。
この行動、行為ということが、神人合一という言葉からはもうひとつ見えてこないので、自分の信仰の姿勢を表現するのには、二願一致という言葉の方がいいだろうと思ったわけです。神人合一ですと、非常に神秘的なのですけれども、行動とか行為というのが見えてこないなと感じたわけです。
神の願いに基づいた行為をするということが、実は超作なのです。私が宮司様(初代宮司)と宗教についていろいろとお話をさせていただくときに、時々、宮司様の目が、それだ!という表情とともに、きらっと光る時があるのですね。宮司様でも、自分のおっしゃりたいことをいつも、すぐうまく言語化おできになるわけではありません。そして、私と一緒に話をしているときに、宮司様がおっしゃりたいことを、私がうまく言語化できたときには、お、それだ!という顔をして、目がきらっと光るのです。
ひと月以内のことだと思いますが、先日も久しぶりにそういうことがありましてね。「お父さんは超作をいろんなふうに説明なさいますね。結果に執われないことだとか、あるいは行為になりきることだとおっしゃるけれども、いろいろ説明なさると、僕なんかは逆に分かりにくくなっちゃうんですよ」と申し上げて、「でも、自分のこの手足を使って、神様の御意志をこの目に見える世界に体現する行為が超作なんじゃないですか」と申し上げたら、久しぶりに宮司様がきら~んと目を光らせて、お、それだ!という顔をなさったのです。
ただ、父親としての宮司様は息子の言うことにそのままオーケーを出さないタイプなので、「手足だけじゃなくて、頭も使わないとな」と付け加えられました。それはそうだ、と私も思いましてね。それで、超作とは、神様の御意志を、御神意を、自分の頭と手足を使ってこの世に表現する、実現する行為である、と理解していいのだなと、そのときに思ったわけです。
いわば、神様がこの世というキャンバスに御自身の御意志を描いて表現されるときの筆が私達なのですね。その筆になることが、超作をする、ということなのでしょう。
二願一致の話に戻れば、最初は自分の切実な願いを、願って、願って、願って、そして自分でできることを一生懸命にして、神様が何かしらの形でそれに応えてくださるという方便の二願一致から始まります。そして、そのような信仰を通して私達は神様と結ばれていく。その結ばれが深まるにつれ、だんだんと神様の願いが私の願いになっていく。そして、神様の願いをこの身でもって実現するとき、それが真実の二願一致であり、あなたが超作をするときであるのです。神様の願いと言っても、神様は、一人ひとりに違うことをさせようとなさっているのですよ。同じことをさせようとなさっているわけではない。神様が私に願われていることを、私がこの身をもって実現したときに、私は、私自身が成り立ち、そして神の国の実現に貢献できる行為をしたということになるのです。要するに、一人ひとりが超作をしていく、そういう信仰のあり方を、この二願一致という言葉に込めたわけです。
方便の二願一致では、皆さんの願いは利己的な願いかもしれないけれども、それを神様が何かしらの形で叶えてくださる。これが信仰の初めにおける方便の救い、救済ですね。しかし、神様の願いを私の願いとしてそれを行えたときが真の救いであり、真の救済であると思います。
そのような信仰を私は求めていたのではないかなと思いまして、私の造語ではありますが、二願一致という言葉を紹介いたしました。
お話は以上ですが、また、少し皆さんと対話をしようと思います。
私の、以上の話ですと、非常にすっきりと整理されているようですが、実際に私達が願い事をするときにはそんなに分かりやすい話にはなりません。どんなに切実に願っていても、それは必ずしも社会のためにいいとは限らない。正しい行為かどうか分からない。ほとんどの場合はそうなのです。
次のようなことを考えてみましょう。脳死体から臓器を移植することがまだ合法ではなかった頃の話です。これは実話ですが、僕が直接見聞したことではなく、ニュースで知った話なのです。若いお母さんの幼い女の子が、六歳ぐらいだったのかな、重い心臓の病気になったのです。そして、そのお子さんが助かるには心臓移植しかないと医者に言われたのです。当時の日本ではそれができないので、アメリカへ行って手術を受けるしかない。そうすると億単位のお金がかかるということだったのですね。
どうしても自分の子供の命を救いたい、お母さんはそう思って、自分と子供の苦しみを人々に訴えて募金活動をすることにしたのです。そのお母さんの子供を救いたいという気持ちに打たれて、ボランティアで募金のお手伝いをする人達も増えました。実は僕も街を歩いていたときに、その募金の人に行き当たって、必死に訴えかけられました。僕もその必死さに打たれて募金しようかなと思ったのですが、そのときは止めておきました。
皆さんはまずどう思われますか。アメリカに行って自分の娘が心臓の移植手術を受けられるようにと募金を始めた、そのお母さんの気持ちを考えて、皆さんだったらどうしますか。「募金してください」と言って必死で訴えているボランティアの学生さんを前にして、皆さんだったら募金するでしょうか、しないでしょうか。
する、という人は手を挙げてください。
一割ぐらいはいますね。
しない、という方は手を挙げてください。
こっちの方が多いですね。二割ぐらいですか。
手を挙げなかった方もいるわけですね。
募金するという人は、どなたか募金する理由を言ってくれませんか。
A 私は心臓移植で募金活動している人達がいたら、たぶん、僅かですが、募金すると思います。それは、七年ぐらい前かな、私の姉の四歳の子供が心臓が悪くて、移植をするしかないということでした。姉は必死で看病したり、お金の工面をしたり、募金活動をしたりしました。私はそういう状態を身近で見ていました。本当に苦しんでいる姿を見ていて、そのお母さん達の気持ちが分かるので、私は募金すると思います。
権宮司様(現宮司) はい、有難うございます。実際にそのよう苦しみを間近で見たというわけですね。そして、その気持ちが分かると。
では、募金をしない、という方に手を挙げた方、どなたかお話しください。
B 私も募金活動を一生懸命にやっているところに出会ったことがありました。そのとき家内とも話したのですが、要するに真実を知っているのかどうかだと思います。人間が肉体だけの存在であれば、どんなことをしてでも、心臓移植してでも助けたいと思うのは当然です。そういうふうに思うのはやはりやむをえないと思います。ただ、実際は何が真実かというと、玉光神社の教えということを離れてみても、いろんなことを冷静にみると、人間には身体と魂というものがあるわけで、その魂の存在という観点からみると、犠牲になった人(何らかの原因で脳死になり、臓器を提供する側の人)の心臓を移植するのはどう考えるべきしょうか。脳死判定では、脳波が止まったということで死亡したことになるわけです。それは、たとえば耳に音を入れて、その音に対する脳波が出なくなったときは脳死というふうに判定をするのです。
宮司様のお話を伺うと、人間には魂というものがあって、魂が肉体を離れるのにはちょっと時間がかかるらしいのですね、心臓が止まって、体温が冷えてから。三日ぐらいかかることもあるというふうに伺っています。そうすると、まだ魂が肉体に宿っているうちに心臓を取って、あるいは臓器を取って移植するということが、果たして本当に真理の上から言ったら正しいのかどうかということが疑問なのです。
私は、臓器を移植するというのは、現代の医学の真理に対する無知があるからするのだろうと思います。東北地方は全国的にも臓器の提供が少ないのですね。私も医者のはしくれなのですが、あるとき、仙台とか宮城県の医師会のわりと偉い先生が、私の脇の方で、東北は臓器移植の提供者が少ないんだよな、もっと運動して増やさなきゃいけないよね、ということを三、四人で話されていました。僕はよほど、それは違う、と言いたかったのだけれども、まさかそこでそんなことを言ってもはじまらないから、言いませんでした。そして、ああ、こういう考えが普通の考えだなと思いました。
非常にデリケートな問題でありますが、真理を知らないから、臓器を移植してでも助けたいという誤った考えが出るのだろうと思います。知らない人達にとっては、それはやはりやむをえないことだから、それを責めるようなこともまたできないのではなかろうかと思います。少し長くなりましたが、このように思っております。
権宮司様 有難うございます。宮司様が教えてくださるところによると、魂が肉体から離れるのには、いわゆる死が確認された後三日とかそのくらい時間がかかるから、その間にメスを入れるのは良くないということです。それに基づいたお話でしたね。
C 今の方の話に通じると思いますけれども、お母さんが子供を思う気持ちは重々理解できますが、神様は、臓器を、心臓が一つ、腎臓は二つ、と定められました。天から戴いた自分の臓器の寿命がきたら、人様のまで移植して生き延びることはやはり天命に反すると考えます。
権宮司様 それでは、募金しない、ということですね。
C しません。
権宮司様 宮司様が教えてくださった霊的な知識とは別に、神様から戴いた天命というのがあるから、それに反するのは反対だという意見でしょうか。
C いえ、宮司様のお教えが基本にございます。
権宮司様 分かりました。有難うございます。
他に、賛成でも反対でも、ご意見ある方、言いたいことがあるという人はいませんか?
D 僕はユニセフとあしなが育英会と赤十字に毎日募金しているのですけど、一円でも多くのお金を恵まれない人にあげる、募金するのが私の願いなので、募金すると思います。
権宮司様 なるほど、なるほど。有難うございます。
E もう十年ぐらい前からこの考え方は変わらないのですが。要するに臓器を移植して生きるということは、その裏には臓器の提供者が必ずいるのですね。そこには、提供者の死があるのですね。だから、移植して生きたいということは、ひょっとしたら、誰か死ね、ということなのです。
権宮司様 今のEさんの論点は、宮司様によって教えて戴いた霊的知識とはまた別な論点ですね。
では、皆さん、先ほどの宮司様から教えて戴いた霊的知識は聞いていなかった、知らなかったと仮定して、次のようなことを考えてください。Eさんが今おっしゃったように、六歳の娘さんに心臓を移植するということは、実は六歳のお子さんのほかの誰かが死ななければできないことなのです。それも、脳死という状態でなければならない。脳死というのはね、誰が見てもまだ生きている状態なのです。息もしているし、脳の反応がないといっても、皮膚をつねれば身体の方は反応するのですよ。要するに脳が死んでいるから痛みは感じないという理屈なのだけど、その状態を誰がどう見ても、まだ生きている状態が脳死なのです。ですから、臓器を取り出すときには麻酔をかけなければできないのです。身体の方は反応してしまいますから。
さて、逆の立場を考えてみましょう。誰かが臓器を移植してもらって助かるということは、別の誰かが脳死判定を受けて、まだ生きているとしか思えないような、まだ血の気のあるその人の体から臓器を取り出すということです。あなたに六歳の娘さんがいて、交通事故にあい、脳死と判定されたとしましょう。まだ身体には十分に生気が感じられる。しかし、どこか打ちどころが悪くて脳死状態になってしまったとします。そして、臓器提供をしてほしいと言われたとします。臓器を提供することになりますと、心臓だけではないのですよ。心臓、肺、腎臓、ほとんど全ての臓器が、眼球も含めて、全部持っていかれます。ほとんど空っぽになった体の中身に、詰め物をして葬儀を出すのです。ですから、六歳の子供さんでなくても成人であっても、臓器を提供すると決めたら、心臓だけでなくて、多分ほとんどの臓器を持っていかれて空っぽの状態になってしまう。
さて、先ほどの子供に心臓移植手術を受けさせたいお母さんの話はいったん忘れて、宮司様から伺った霊的な知識もいったん忘れて考えてみてください。自分の六歳の女の子が交通事故で打ちどころが悪くて脳死状態になってしまったとしたら、臓器提供をオーケーしますか。それを聞いてみましょう。
臓器提供する、という人は手を挙げてください。
一人だけいますね。
しない、という人は?
ほとんどですね。
実はこれは非常に有名な質問なのです。臓器移植問題を考えるときに、自分の臓器は提供しますか、と聞いたら多くの人は手を挙げる。ところが、あなたの子供が脳死状態になったときに臓器を提供しますか、と聞いたときは、あまり手を挙げないのですね。何故でしょうかね?
そういうふうに言うと、子供や家族が提供者になることには、宮司様の霊的な知識と関係ないところでも、多くの人が躊躇するのですね。とくに日本人はそうです。何故なら、身体と心をそんなにスパッと分けて考えないからですね。
さて、これについて何かもう少し言いたいことがあれば、手を挙げてください。
F 宮司様のお説から、自分なりに考えたことがあります。身体が脳死状態で移植すると、霊体が傷つくということですが、その霊体を持って生まれ変わると、ひょっとすると心臓に欠陥がある子供に生まれることが考えられるのではないかなと思います。というのは、自分も自分の中の霊体に、体の捩れとか、この世的にうまくできない原因があるのではないかなと、最近は強く感じるようになりまして。だから、ただ魂があるからというのではなくて、脳死状態で取り除くことによって、霊体が傷ついてしまって、それが修復できればいいのですが、傷ついたままずっと修復できないと、生まれ変わりのときに、心臓やほかの臓器に欠陥があるような人間として再生するような恐れがあるのではないかなと、そういうふうに私は思います。
権宮司様 なるほどね、霊的な体が傷ついたら、再生したときも何か問題が生じるのではないかと。それで賛成できないということですね。
F そういう観点もあるのではないかと思います。
権宮司様 なるほど。
ほかに何かご意見ある方いますか?
G 日本の習慣からすると、亡くなってすぐに切り刻まれたくないというのが、わが子に対する思いだと思うのですよね。それがやはり拒絶反応を起こすのではないでしょうか。自分のことは自分で判断しますから、全部有効利用というか、そういう方向へ持っていけると思いますけれども、子供になると、切り刻まれたくはないというのが人情だと思うのですね。そういう点になると、反対です。
権宮司様 なるほど。実はこの問題は宗教界ではずいぶん議論されているのです。宗教界にも反対派の人、賛成派の人、両方がいます。自分の身体を差し上げることが菩薩行だと唱える方もいらっしゃれば、臓器を取り出すことは死者への冒涜であるとおっしゃる方もいらっしゃいます。
さて、いろんなお立場、いろんなお考えがあるとは思いますけれども、最初に戻りますと、皆さんは、わが子をアメリカで心臓移植手術を受けさせたい、わが子を助けたい、そのために募金活動をしようという、お母さんの切実な思い、これを善だと思いますか。それとも悪だと思いますか。あくまで、イエスかノーかで答えてくださいね。意見が分かれることによって、皆さんの思考が動きだすからです。
このお母さんの願いは善だ、正しい、と思う人は手を挙げてください。
三割はいますね。
いや、間違っている、悪だ、と思う人は手を挙げてください。
こっちの方がやや少ないですね。やはり、そのお母さんの気持ちは肯定的に捉える方の方が若干多いですね。しかも、女性の方が多かったですね。
さて、最初に二願一致という言葉を紹介して、自分の切実な思いを神様に申し上げるということについてお話ししました。たぶんそのお母さんは毎日必死で祈ったと思いますよ。子供を助けてください、アメリカへ行けるようにお金を集めることができますように、手術を受けさせてください、と必死で祈ったと思います。そのように祈ることは間違った祈りなのか、それとも正しい祈りなのか。
正しい祈りだ、と思う人は手を挙げてください。
三割ぐらいかな。
間違った祈りだ、と思う人は手を挙げてください。
こっちは少ないですね。一割いないぐらいですかね。
では、もう少し視点を変えてみましょう。このように必死で祈ったら、神様が何かしらの形で応えてくださると思う人は手を挙げてください。
何人かいますね。
いや、願い事そのものが間違っているから、神様は何も応えてくださらないよ、と思う人は手を挙げてください。
やはり、こちらも何人かいるのですね。
さて、ここで僕の考えを申し上げましょう。しかし、いいですか、ここで僕の言うことが正しいと思って聞く必要はないですからね。皆さんは、権宮司さんの言うことと自分の思うことは違うなと思ったら、そこでまた自分なりに考えだしてほしい。正しいことは何か、神の導きとは何かということを。
その上でお話ししますと、僕だったら、そのお母さんが本当に真実に真心からそう願っているなら、僕も一緒にその願いを御神前で神様に申し上げます。そして、どのようなお導きをくださるかは神様にお任せします。ただし、お母さんにも、ただ祈って願うだけではなく、自分のしていることがどういうことなのか、よく考えてみてください、とも言います。よく考えて、そして自分のできることは精一杯やってください、と言うでしょう。
真心から願って、神様の御教えについて考え、これが神様の御神意に照らすとどうなのだろうと自分を振り返りながら、できることを一生懸命にしていれば、第七条の、「神を信じよ 一切が成就する」とありますように、必ず神様が何かしら応えてくださると僕は思います。そのお導きが、思ったようなものではないかもしれないけれども、何かしら応えてくださる、と私は思っているのです。ですから、僕だったら、そのお母さんの願い事をそのまま神様に一緒になってお願い申し上げます。
そうすることが、宗教的な祈願として正しいかどうか、僕にだって分からないですよ。僕だって、脳死体から臓器を取るのは良くないと宮司様から伺っているし、宮司様から教えて戴いていることを抜きにしても、宗教界での議論を聞けば、生きているとしか見えない脳死体から全ての臓器を取り除くというのは、正しいこととはどうしても感覚的に思えない。でも、お母さんが本当にそう願われているのだったら、斎官として僕は、そのお母さんの願いそのままを大神様に一緒に願うと思う。でも、後は神様がどのようなお導きをくださるかは、僕には分からない。神様の御意志は分からない。でも、分からないけれども、神様はきっと導いてくださると思って、お任せいたします。ただ、そのような願い方が正解かどうかは分からないですよ。
しかし、話を元に戻すと、願いがあるから人間は行動を起こすのです。信仰という観点からは、自分の願いが神様の願いに近づいていくかということが大切なのだと思いますけれども、そのために神様と深く結ばれなくてはいけない。神様と深く結ばれていくためには、まず皆さんが神様に心を開かなければいけない。神様にありのままの自分をお見せしなければいけない。本音を隠した人の願い事は誰も聞かない。本音で神様に自分の願いをお見せするしかない。その中でどのように神様が導いてくださるかは、僕には分からないけれども、僕はそういうふうに思って、信仰してきたのです。
こういう難しい問題で、何が正しいのかはそう簡単に言えません。ただ、自分の姿勢が誠実であるかどうかというのは、誰だってある程度は分かりますよね。たとえ同じ主張の人であっても、慈善家気取りで浅い考えを持っている人なのか、本当にそれについて深く考えている人なのかということで、違いが出ます。誠実に深く考え行動している人には、必ず成長があると思うのです。
では、有難うございました。
(御神前で大神様にご挨拶)
いったん話が終わってから、追伸のように話をするのはなるべく避けたいのですが、一つ言い忘れたなと思うことがあります。神様はこの世界を創られた全知全能の神様であり、神様はこの世界を超越していると同時に、この世界そのものが神様の身体なのですから、神様にできないことはない。『十五条の御神訓』の冒頭、第一条は、「神は 宇宙霊界を創り 生かし賜う」です。創って、生かす、この創造力、この力こそが神様の本質なのですね。だから、神様にできないことはない。そして、この力というのは、第二条「神は 愛と智慧をもってすべてを生かし 進化させ賜う」にあるように、ただの力ではなくて、愛と智慧と分かち難い、美しい気高い力なのです。
その美しい気高き力である創造力、神様に頼って、神様のお導きに身を任せる。そして自分のできることを一生懸命にする。それが第七条の「神を信じよ 一切が成就する」の根拠であるわけです。
ただ、私達は心が弱いものですから、目に見えない神様ではなくて、目の前にある物とかお金とか、あるいは何か強そうな人とかに頼りたくなるのです。しかし、第一に頼るべきなのは神様なのです。
心から願う、それを神様に訴える、自分のできることを一生懸命にするということが大切だと思います。そして、結果は必ず神様が導いてくださる、と信じることですね。「神を信じよ 一切が成就する」と書いてあるように、とにかく信じる。「神を信じる」と言っても、僕にだって難しいですよ。心が弱いと、やはり目の前にあるものを信じたくなる。でも、目の前にあるものではなくて、私と共に生きている神様を信じる。これは、実際にはなかなか難しいことですけど、そういう姿勢でいたいなと思います。
では、今日は有難うございました。
(了)