2021年4月8日 春の大祭 宮司講話

2021年4月8日 春の大祭 宮司講話

果を求めずして、己が本務を盡すべし
― 超作の神秘的な側面について ―

 皆さん、大祭のお詣りご苦労様でした。ありがとうございました。今日はここ(幣殿)で講話をいたします。
 超作には倫理的な面と神秘的な面の両方がありますが、正月の講話では倫理的な面に焦点を合わせてお話をして、その後の五回の講話で、その内容を噛み砕いて解説しました。今日は、超作のもつ神秘的な側面についてお話しします。神秘的な側面と言っても、いわゆる不思議体験といったものではありません。それでも、それはとても大事なことなのです。

 お釈迦様には、いろんな逸話がありますが、非常に古くから知られている逸話のひとつに、お釈迦様と子どもを亡くした女性についてのお話があります。非常に有名なお話ですから、知っている方も多いと思います。貧乏な家に生まれて苦労した女性がいましたが、お金持ちの若者と結婚することができ、子どもも授かり、やっと幸せになれたと思っていました。ですが、子どもがお腹にいるときに、ご主人が病気で突然亡くなってしまいました。それでも、子どもが生まれて、その子を生き甲斐にして生きていこうと思っていたのです。しかし、その子がよちよち歩きができて、これからだというときに、その子どもも病気で死んでしまったのです。女性は大変に嘆き悲しみました。村中を一軒一軒訪ね歩いて「この子を生き返らせる薬をください」と頼むのですが、どこの家にもそんな薬はありません。あまりにもその女性が嘆き悲しむので、ある人が見かねて「お釈迦様なら、その薬を持っていらっしゃるだろう、作ってくださるだろう」と言ってくれたのです。
 そこでその女性は、すがる思いでお釈迦様のところに訪ねていきました。すると、お釈迦様は女性の話を聞かれて、「子どもが生き返る薬を作ってあげよう」とおっしゃったのです。さらに、「薬を作る材料として白いケシの実を二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。女性は喜んで、「はい、持ってまいります」と応えました。ところで、お釈迦様はさらに、「そのケシの実は今まで一人も死人を出していない家からもらってきなさい」とおっしゃったんですね。
 それで、女性は子どもを生き返らせたいものですから、「はい、分かりました」と言って、村中、町中の家を訪ね歩きました。すると、あるお宅では「お宅では死人は出ていませんか?」と尋ね、「いや、親父が死にました」と答えられ、別のお宅では「去年、子どもを亡くしてしまいました」という調子です。すべての家を回ると、結局は死人を出したことがない家は一軒もなかったのです。それで、女性は「人は必ず死ぬのだ。坊やも死んでしまったけれども、これは仕方がないことなんだ」と悟って、お釈迦様のところに戻ってきて、そのように報告したわけです。そして、お釈迦様のお弟子になって、その後は立派な修行者になったというお話なんです。

 お釈迦様は二千五百年ほど前のインドの方です。当時は、そういう奇跡を起こす祈祷をしてくれる人がたくさんいたはずだと思います。宗教では、奇跡による救いというのは非常に大事です。例えば、お釈迦様より五百年後のイエス様はたくさんの奇跡を起こされて、その奇跡によって神様を信じる人がたくさんいたわけです。お釈迦様自身にも、いろいろな奇跡を起こされたという話が残っています。ですから、奇跡による救いは大事なんです。しかしながら、仏教の大きな特徴は、悟ることによって救われる、智慧によって救われる、ということなのですね。ですから、お釈迦様は、子どもを亡くしたその女性が悟ることによって、智慧によって救われるように導かれたわけなのです。
 女性は、人は必ず死ぬということを悟り、その悟りによって救われたわけなのですけれども、考えてみれば、人は必ず死ぬわけです。そんなことは子どもでも知っている。誰でも知っている。その女性だって知っていたはずです。ですから、この逸話は、言葉による知恵と体験による智慧は違う、というお話でもあるのです。言葉によって知ることと、体験を通して悟るということは、まったく異なるということを、この逸話は語っているのです。

 子どもでも死という言葉を知っています。私たちは死というものを言葉として知っていますが、私たちは、この言葉として知っている「死」というものが、実際にあると思っているんです。僕自身も、妙光之神様を含めて祖父母の亡骸を見たことがありますけれども、人がその場で息を引き取るのを本当に目にしたのは、父親である初代宮司様だけなんです。今の先進国の社会では、医療関係者などの特定の仕事についている人以外は、人の死ぬ場面に立ち会うことはほぼありません。なのに、誰もが、人は死ぬと思っているのです。頭の中に言葉があり、その言葉によって意味するもの、イメージするものがそのまま外の世界にあると思っているのです。しかし、頭の中、心の中にあるものと、実際にあるものとは違うものなんですね。そして、ほとんどの人がその違いに気がつかないのです。
 かつて、日本の保守政治家の中には本物のハト派の人たちがいました。彼らには、この戦争の悲劇をもう二度と国民に味わわせてはいけない、国民をあんな目に遭わせてはいけない、という強い信念がありました。一方で、戦後生まれの若い保守政治家の中には、特攻隊の死を理想化して語る人も見受けられます。しかし、彼らの考える戦死とは彼らの頭の中にあるだけで、本物のハト派の人が知っていた実際の戦死とは違うものであるのでしょう。また、戦後生まれの若い左翼活動家の中には、非常に高い理想を求めているはずなのに、内ゲバで暴力を振るって殺し合う人たちもいました。彼らは反戦ではあったけれども、崇高な革命は偉大だと信じていました。しかし、彼らが考える革命、彼らが考える死というものも、彼らの頭の中、心の中にあっただけだったのでしょう。実際にしたことは、ただの暴力、人殺しでした。

 このような極端な例ではなくても、私たちは、自分の頭の中、心の中にあるものが、そのまま実際にあると思っているのです。そして、そのことが、実は苦しみの原因だと僕は思います。それを無明と言うのでしょうね。心の中にあるだけのもの、それだけのものなのに、私たちはそれが実際にあると思ってしまう、それこそが苦しみの原因だ、そのように僕は思うわけです。
 私たちの頭の中にある言葉、そしてその言葉が指し示すものが心の中にあって、それがそのまま実際にある、と私たちは思っているのですが、その中でも最も重要な言葉とは何でしょうか。つまり、私たちの苦しみの根本を作っている言葉は何なのか。その言葉を知っているが故に、それがあると思い、それによって苦しんでいるような言葉がある。それは何かと言うと、「私」なんですね。私たちは「我」、「自己」というものがあると思っている。もう少し正確に言いますと、「私」という言葉が指し示すものが実際にあると思っています。しかし、そのような「私」というようなものは、実は、どこにもないということを、お釈迦様は説かれたんです。

 では、そのような「私」という言葉、「私」という観念、「私」という意識から離れるにはどうしたらいいのでしょうか。それがここからのお話です。

 今から千八百年ほど前のインドに、龍樹菩薩という偉いお坊さんがいらっしゃいました。その龍樹菩薩は次のようなことをおっしゃっています。ちょっと難しい言い方ですけれども、我慢して聞いてください。何か行う、つまり行為をするとき、それを行っている者、つまり行為の主体は、その行為をしているときに立ち現れるのです。行為の主体も行為の対象も、行為をしているときに立ち現れてくるのであって、その行為の以前にも、その行為の以後にも存在しない、そのように龍樹菩薩はおっしゃっているのですね。例えば、走る人は走っているときに立ち現れるのであり、その人は走る前にも後にもいない。音楽を聴く人は音楽を聴いているときに立ち現れてくるのであり、その人は聴く前にも後にもいないということになります。
 しかし、私たちはそのようには思いません。何らかの行為をする前から、そもそも自分というものがあらかじめいて、その自分なるものが、ときには走り、ときには音楽を聴く、と私たちは固く信じています。しかし、龍樹菩薩は、そのような自分(つまり「私」)はいなくて、行為のたびに、その主体が立ち現れるんだ、とおっしゃるわけですね。私たちは、そんなこと本当かなぁと思ってしまう。だって、どう考えたって、まず僕がいて、そして僕がときには走り、ときには音楽を聴く、それ以外のあり方なんて考えられませんよね。

 ところで、初代宮司様は、超作をするには行為になりきりなさい、とよくおっしゃっていました。初代宮司様も晩年になると、超作とは愛の行為だというように、超作の倫理的な側面について話すことが多くなられましたが、若いころや壮年期のころには、結果を求めないで、行為になりきりなさい、ともっぱら説かれていました。そして、行為になりきる努力をしてみると、走る私はなるほど走っているときにいる、聴く私はなるほど聴いているときにいる、見る私はなるほど見るときにいる、ということが分かってきます。行為になりきるという体験を通して、なぜかなんだかちょっと分かってくる。
 行為になりきると、例えば走るときに走ることになりきると、祝詞を声に出して唱えるときに唱えることになりきると、それまでずっと、ある、あると思っていた「私」というものが、ふと消えるような感じがするのです。そのときには、なんだか、ちょっと不思議な感じがするのですね。そのちょっと不思議な感じが大事なんです。それまで、ある、あると思っていた自分というものが、ちょっとどこかに消えちゃった、そういう不思議な感じの体験を通して、あると当然に思っていた私が、私という言葉が指し示している何かが、もしかしたらないのかな、という気が本当にしてくるものなんです。

 さて、走るときには走る主体が、聴くときには聴く主体が立ち現れると言いましても、私たちはいつも走っているわけでも、いつも聴いているわけでもないですね。いつも何かに触っているわけではありませんし、いつもお腹をかかえて笑っているわけではありませんし、いつも何か臭いを嗅いでいるわけでもない。しかし、実は一つだけ、いつ何時でも私たちがしている行為があるのです。それはね、「思う」ことなんです。誰もが、いつも何かを思っている。たとえじっとしていても、何かを思っている。走っているときも、聴いているときも、やはり何かを思っている。思うというのは心の中だけでの行為ですが、やはり行為なのです。その行為の主体、つまり思う主体は、思うという行為をするからいるだけなんです。しかし、私たちはいつも何かしら思っているから、思う主体はいつも立ち現れている。それ故に、思う主体は、この思う主体こそが「私」だと思っているわけなんです。
 私たちは、「私」がときには走り、ときには聴くと信じている。そして、思う主体がその「私」だと思っている。しかし、思う主体はただ思うだけのものなのですよ。思う主体は、走らないし、聴きません。ですから、思う主体は、思うという行為以外の行為になりきることはできません。ところが、私たちは、初代宮司様が行為になりきりなさいと説かれたから、走ることになりきろうとか、聴くことになりきろうとか、祝詞を唱えることになりきろうとか、それこそ「思う」んです。そして、その思う主体が、それらの行為になりきろうとするんです。
 しかし、龍樹菩薩によれば、それは原理的に不可能なのです。走ることになりきることができるのは、走る主体です。思う主体は走ることになりきることはできない。聴くことになりきれるのは、聴く主体です。思う主体は聴くことになりきることはできない。唱えることになりきれるのは、唱える主体です。思う主体は唱えることになりきることはできないのです。原理的にできないことをしようとするのは、結局は無駄な努力なんです。そのような無駄な努力もまた苦しみを生み出します。
 本当に行為になりきろうとするなら、行為の主体ではなく、行為そのものに意識の焦点を合わせることです。そうすると、走る主体が走ることになりきっていきます。聴く主体が聴く主体となりきり、聴いている音と一つになっていきます。唱える主体が唱えることになりきると、唱えている祝詞と一つになっていきます。そして、そうなるためには少々訓練が必要です。しかし、それは超人的な厳しい修行である必要はない。見る、聞く、歩くといった、一人でする日常の行為の中で訓練することができるんです。
 そして、本当に行為になりきると、思う主体がどこかに消えてしまうんです。そういう体験を積み重ねていくと、思う主体が自分自身でなかったんだな、と気がついてくるんです。そして、そのときにちょっと不思議な感じがするんです。自分がなくなっているような感じがするんです。自分というものを忘れてしまったような感じがすることがあるんです。そのときに、不思議な気がする。そのときに、自分というものが、ある、あると思っていた自分というものが、実は、あったわけではなかったという智慧が身につくわけですね。そういう意味で、神秘と智慧というのは関連が深いわけです。神秘と智慧はつながっているわけですね。自分が消えたかのような神秘的な不思議さによって、それまでは、ある、あると思っていた自分、私、我、自己という妄想から離れる智慧が生じるわけです。

 言葉が指し示すものは概念・観念であり、それは心の中だけにあります。それが実際にあると思うことが苦しみのもとになります。また、人は何時でも何かしらを思っています。しかも、心の中で言葉を使って思っています。思おうと意図しなくても、いつの間にか何かを思っています。それは、言葉を使って何かを思うようにさせる力が、私たちの無意識の領域で働いているからです。また、そのような思いは枝葉のように広がっていきます。つまり展開していきます。以上の三つ、①言葉が指し示すものが実際にあると信じてしまうこと、②言葉を使って思うように働く無意識の力、③言葉が展開していくこと、これらをまとめて龍樹菩薩は「戯論(けろん)」と呼ばれます。この戯論が寂滅すること、つまり制御されて止まることが悟りにつながると、龍樹菩薩は主著である『中論』で述べられています。
 さらに、その記述の直前で、「私」と「私のもの」が滅することにより解脱すると述べられています。それは、「私」が戯論の主体、つまり思う主体であることを、強く示唆していると思います。「私」から離れるという神秘が、智慧とつながり、それは思う主体から離れることであり、それが悟りにつながると言っているように思えます。その箇所を『中論』から引用しておきます。第十八章の第四偈と第五偈です。

四 内面的にも外面的にも〈これはわれのものである〉とか〈これはわれである〉とかいう観念の滅びたときに執著はとどめられ、それが滅びたことから生が滅びることになる。
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
(中村元訳)

(第四偈)外にも、そしてまさに内にも、「私」や「私のもの」という意識が消滅するとき、[欲取・見取・戒取・我語取という四種の]執着(取)が滅する。執着が消滅するから、[再び]生まれることも消滅する。
(第五偈)業と煩悩とが消滅することにより解脱がある。
業と煩悩とは、概念的思惟より生じる。諸々の概念的思惟は、言語的多元性(戯論)より生じる。しかし、言語的多元性は空性において滅する。
(桂紹隆訳)

 以上、結果を求めないで、行為になりきりなさい、という初代宮司様の初期のころからの超作の教えの、行為になりきるという部分に焦点を合わせてお話ししました。もうひとつの、結果を求めない、ということについて一言だけ申します。結果を求めるのは思う主体です。ですから、行為になりきり、思う主体が忘れられているときには、結果を求めることも忘れられているのです。

 超作の、私心から離れるという倫理的な側面を、初代宮司様は愛という言葉で表現されました。私心から離れるということは、倫理的な自己否定です。思う主体から離れる、いつも何かしらを思っている自分が消えてしまう神秘的な体験、これは滅却の自己否定です。その滅却の自己否定は智慧とつながっている。この二つの自己否定を、初代宮司様は愛と智慧という言葉で表現されたわけですね。そして、この二つがそろっての超作なんだという難しい宿題を、ま、僕に言わせれば無理難題を私たちに残して、逝ってしまわれたのですね。
 もう一度、結果を求めない、ということに話を戻しますと、倫理的な自己否定とは利己的な結果を求めないことだと言えます。そして、利己的な結果を求めるのは、やはり思う主体です。先ほど申しましたように、思う主体がいなくなってしまうことが滅却の自己否定でした。ですから、倫理的な自己否定と滅却の自己否定はつながっています。やはり、倫理と神秘は不可分なのです。そのことを神倫という言葉で表現したのは何年か前の秋の大祭で、でした。超作は神倫の道だと言えるでしょう。

 今日はかなり難しい話をしました。ですから、この話をまた数回に分けて、噛み砕いてお話ししていこうと思っています。

 今年は超作布教の元年としたいと思っています。私心から離れるための訓練として、「超作瞑想(仮称)」という方法を考えていまして、それを近々皆さんにお伝えすることができると思います。また行為になりきるための訓練の方法も、今年の夏ぐらいには形を整えることができると思います。この両方を合わせて、超作の実践のための修行というか、ひとつの訓練方法を皆さんにお教えすることができるのではないかと思います。
 大神様は初代宮司様を通して超作せよと仰せになりました。そもそも、大神様は教祖であるお代様に初めて御降臨になったとき、『本来神には名前も位もいらぬ』と仰せになった。ですから、超作は玉光神社という特定の団体の実践であってはいけない。これに玉光神社という紐がついていてはいけないと思っています。神社の興隆とは関係なく、広くお伝えできるようにしないといけないと思っているところです。お伝えするための具体的なビジョンはまだ描ききれてはいませんが、何とか頑張りたいと思います。

 もっと短い話になると思ったのですが、正月と同じく長い話になりました。すみません。長い話であったことが分かります、足が痺れてきましたから(笑)。今日は皆さん、大祭のお詣りご苦労様でした。ありがとうございます。

(了)